放課後、私は生徒会のほうを休ませてもらい、市役所の市民課に足を運んでいた。こういう役所は高校生にとって、よほどの用がない限り縁のない場所だ。 市民課のホールで、私のセーラー服は間違いなく浮いていた。 それでも見本どおりに戸籍謄本の申請書を書き、ハンコをついて窓口に出す。15分ほど、この堅い雰囲気の中で名前が呼ばれるのを待たなければいけなかった。 これから突きつけられるかもしれない最悪の事態を想像し、いや、絶対にそんなことはない、とそれを打ち消す。そういう作業を何度も繰り返しているうちにやっと苗字を呼ばれる。 戸籍謄本をもらうのには相応のお金がかかる。まして私の場合は除籍関係の書類も請求しているから尚更。 「ありがとうございました」 いかにも儀礼的なお役所の挨拶。私は適当に会釈して、急ぎ足でバスの停留所に向かう。ちょうど家に向かう方向のバスに乗って、周りにわからないよう、そっと戸籍謄本の除籍欄に目を通す。 「遠野知 長男 平成××年 ×月×日 藤沢裕二と養子縁組のため除籍」 目の前が真っ暗になった。 そこからどうやってバスを降り、自分の家まで帰ったのかさえわからないほどの困惑、恐怖、不安。マイナスの感情が一度に私の心を、身体を、頭を冷たくさせていく。 ひなせだけでなく、私までもが。 私までもが、自ら望んで、実兄に身体を差し出していたなんて。 「……お姉ちゃん」 先に帰ってきていたひなせに、例のものを渡す。実はひなせとの約束があってのこと、というのもあって、今日こうして戸籍謄本を持ってきたのだ。もちろん、先生には何も言っていない、言えるはずもない。 「あの夢、嘘じゃなかったのね」 「……もしかして、あたしがお姉ちゃんを好きになったからいけないの?ねえお姉ちゃん、そうなんでしょう?そうなんだよね?」 「落ち着いて。ひなせは何も悪くない」 と言っている自分が一番動揺しているのだけれど、それを表に出せない。私がここで動揺してしまうと、ひなせが更に不安に陥ってしまうから。ひなせのことはやはり妹としてしか見ることができないけれど、それでもひなせが私のせいで苦しむことだけは避けたい。 ……今の時点で十二分に苦しめているかもしれない、とは思うけれど。 「ひなせも先生も、誰も悪くないの。悪いのは私。ちゃんと気づかなかったから」 「気づかなかったんならあたしだって悪いよ。それにあたしだって、先生と同じこと……ううん、先生以上にお姉ちゃんに酷いことしたから」 「大丈夫。ひなせ、あなたは何も悪くない。私が保証するから」 幼い頃、好きとか嫌いとか、そういうものを全て抜きにして、ひなせを守りたい一心でそうしたように。私はひなせをそっと抱きしめてあげた。同時に声をあげて泣き出すひなせ。泣きたいのは私も一緒だけれど、ここで泣いたらいけない。共倒れになって、きっともっと悪いほうにことが進んでしまうから。 ひなせが泣き止むと、私はテーブルに置かれた戸籍謄本を手に取り、それを思い切り引き裂いた。 引き裂いて、引き裂いて、引き裂いて、ただの紙屑に成り果てたそれを投げ捨てる。だからと言って私たちきょうだいが罪を犯しているのには変わりはないのが、哀しくて悔しい。 たまたまひなせが好きになったのが、実の姉である私で、たまたま私が好きになったのが、生き別れの実の兄だった。それだけの話なのに。 ……? 生き別れの、実の、兄? 先生は私たちと違ってもう物心ついていたはずだから、私たちが実の妹だって知っていてもおかしくないだろう。もしかしたら、先生自身も知っていたのかもしれない。 先生は、すべてをわかっていて私を……? 急速に、全ての事象が動き出していた。 次に会ったとき、私は覚悟を決めていた。全てを確信に変える覚悟。私たちが罪を犯していることを再確認する覚悟。 「知、昔の話、聞かせて」 まずそこから始めてみる。昔の話など今までお互いしたことなどなかった。今があればそれでよかったから。昔も未来もどうでもよかったから。 「昔の話ですか?」 「そう。私も話すから知のことも聞きたいな」 知はしばらく黙り込んではいたが、やがて重い口を開いてくれた。 「僕、幼い頃に両親を亡くしたんですよ」 「知……」 何も知らなかったかのように返す。本当は全てを知っているけれど。 「本当は妹もいたんですけどね、今じゃ離れ離れです」 「そっか……先生も大変だったんだ」 一呼吸おいて、 「で、先生の妹さんって?」 そこで先生の顔色が変わるのを私は見逃さなかった。でも中学時代は演劇部だった私だ、そこはうまく知らない振りをする。 「双子だったんですよ。二人ともとても優しい子で、離れがたかったですね。それに、僕はすぐに引き取り手が決まったんですが妹たちは……今どうしているんでしょうかね」 「私、知ってる」 はっとしたように顔を上げる知。 「私の両親が事故死して、今は私とひなせの二人暮しだっていうこと、先生はもう知ってるよね、だってひなせの担任だもの。……もしかして、私の昔の話なんてすることもなかったかな」 「あ、いや……」 言葉を濁らせる知。まるで、なぜそれを知っているのだ、というように。私だって数ヶ月前までは想像もしていなかった事態だ。ただ知が好きだった、それだけ。 でもそれだけじゃうまくいかなくなった。ひなせが見せた悪夢と、私への悪戯。それが毎日繰り返されるようになって、私はいつしか夜がくるのが怖くさえなってしまった。 更なる悪夢を見てもいい、それは一瞬のこと、それより安寧の夜が欲しい。 「私たちにも、幼い頃に生き別れた兄がいるの。名前は遠野知。引き取り手がいたからもう名字は変わってしまったけれど」 何も知らなかったころのように甘い夢に浸っていたかった、けれど全てを知ってしまった今ではそれすら許されないこと。 「今の兄の名前は、藤沢知。戸籍も見ました」 決然と。 全てが壊れることを覚悟して、私はそう言った。 ――たとえ戻れなかったとしてもいい。知を好きな気持ちだけは絶対に変わらない。 ←back next→ |